唯の父・宇良田玄彰は自由民権の活動家
唯に多大な影響を与えた父、宇良田玄彰は、大銀主「萬屋」の7代目であり、 自由民権の活動家。 20歳で京都へ登り、仁和寺の書生となった後に、長崎で坂本龍馬に学ぶ。 薩摩藩士西郷隆盛や大久保利通らと親交のあつた玄彰は、 明治10年西南戦争が勃発すると、西郷隆盛と明治政府内外の各要人に建白(意見)書を提出し、 戦争の終結に努めた。明治11年に東京で『憂国議事新聞』を 発行し国民世論の政治的向上に尽力しました。
【 西南件兵勢論 】
(出典:宇良田 心)
【 憂国議事新聞 】
(出典:宇良田 心)
留学、結婚、中国へ 導いた恩師・北里柴三郎
医師であり細菌学者である北里柴三郎は、公私にわたって唯の恩師でありました。
医師となった唯は、私立伝染病研究所(後の北里研究所)にて、北里柴三郎、浜田玄達(日本の産婦人科学界の始祖)に師事。
(同校(済生学舎医学校)出身の野口英世や志賀潔も北里柴三郎に師事。)その後、牛深で2年ほど開業しますが、ドイツ留学のため再び上京しました。
また、帰国から5年後、北里夫妻の媒酌により、中村常三郎(島原出身の北里研究所薬剤師)と結婚。
当時の中国の状況を聞き、北里柴三郎の助言をうけて、中国の天津に向かい、総合病院「同仁病院」を創設し、25年間営みました。
中国の天津で唯と「同仁病院」を創設した夫・中村常三郎
明治40年、唯は恩師・北里柴三郎の紹介で島原出身の北里研究所の薬剤師、中村常三郎と結婚しました。
結婚後、中国の天津に向かい、夫の常三郎は創設した「同仁病院」の1階で薬局と印刷所を経営していました。
昭和7年、天津で病気で急逝した常三郎。唯は医師でありながら、夫に対して何もしてあげられなかったと悔やみ、
医師になったことを後悔し、一時はこの仕事を辞めようかと思ったほど苦しみました。
中国・天津で「同仁病院」創設
(出典:宇良田 心)